2014年1月5日日曜日

熊野宮

熊野宮 小平 サイト

 当宮は、武蔵国多摩郡殿ヶ谷村鎮座の延善式内社・阿豆左味天神社の摂社として、同郡岸村字岸組に産土神と奉斎されていた社を、小川村の開拓に着手した小川九郎兵衛と、阿豆左味天神社の神主で当宮社家の始祖である宮崎主馬が、寛文年間に小川村明主の屋敷内に遷祀し、その後小川新田(現在の仲町、喜平町、学園東町、学園西町と上水本町の一部、上水新町)の開拓を行うのに先立って、その守護神として宝永元年(1704)に榎の大樹のもとに祠を建立し遷座したのが縁起である。
 以来この地域の鎮守の社として崇敬を集め、平成16年(2004)に御鎮座三百年を迎えた。
 往時この一帯は「逃水の里(にげみずのさと)」と称され、川もなく水の便が非常に悪い場所で、人家が一軒もない荒漠たる武蔵野の原野であったと言われている。
 その当時から重要な街道であった青梅街道と鎌倉街道(現在の府中街道)が、この小平の東西と南北に通じているが、特に青梅街道の田無から箱根ヶ崎までの間には宿場もなく、往還する人馬にとって寒暑風雨や飲み水の確保に至極難渋した地域であったようである。
 そのような原野の中にあって、当地に一本の榎の巨木が聳え立っており、これが「武蔵野の一本榎」と呼ばれていて、両街道を往来する人々の良き目印や一時の休息の場になっていたと伝えられている。
 宝永年間の「一本榎」は、既に樹齢数百年を経た老大樹で、その枝は四方の広大なる地域に張り、その投影は百数十間にも及び、盛夏の炎天下にあっても絶えず千古の涼風が吹き通っていたとも伝えられている。
 この初代の榎は、寛保年間(1742~44)に枯木となり、その後に一本榎神社として祀られ、現在その社は、境内の末社殿に合祀されている。
 二代目の榎も目通り七尺の大樹であったが、大正3年9月の暴風雨により倒潰し、現在繋っている榎は、樹齢約百年の三代目の孫木である。
 また、社殿正面には、樹齢約三百年の2本の欅が寄り添って繋っており、「夫婦欅」と呼ばれ夫婦円満の象徴として参拝者に親しまれている。
御祭神
伊邪那岐大神・伊邪那美大神
早玉男乃神・事解雄乃神・猿田彦神








































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