2014年2月15日土曜日

知るべき歴史 盗まれた楽園、ハワイ王国

2014年2月15日


 ここでいうハワイを侵略したアメリカとは何か?

アメリカに住んでいる人を指すのか?

当時、アメリカの政策を決定したのは誰か?

同様に、イラク、イラン、アフガニスタンの攻撃を決定したのは誰か?

当時の戦争広告代理人は誰で、どのような活動をしたのか?

また、戦争に反対した人はどのような活動をしたのか?

反戦活動をうまく誘導して、単なるガス抜きにされたのではないか?

得をしたのは誰か? 損をしたのは誰か?





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JOG  Guide: 地球史探訪 ~ 地球史の中で日本人が歩んできた道をたどる ~

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伊勢雅臣 



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          _/     地球史探訪:盗まれた楽園、ハワイ王国
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_/ _/_/_/        日本との「同種族連合」を目指すカラカウワ王
_/ _/_/         に、白人特権階級が反旗を翻した。
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■1.カラカウア王の密かな夢■

     明治14(1881)年3月、ハワイ王国のカラカウワ王が世界一
    周旅行の途上で、横浜港に到着した。日本の海軍軍楽隊はハワ
    イの国歌「ハワイ・ボノイ(ハワイの国民)」を演奏して出迎
    えた。王は思いがけない日本側のもてなしと、異国の地で自身
    が作詞した国歌を聴かされた事に感じ入って、涙を流した。
    
     翌日、特別列車で横浜駅から新橋駅に着き、当時の皇居であ
    った赤坂離宮に向かう。横浜港も鉄道も日本人だけで運用され
    ていて、「どこにもハオール(ハワイ語で「白人」)を見なか
    った」事に強い感銘を受けた。
    
     当時のハワイ王国は、欧米から来た白人が国土の75%以上
    を保有し、また政府の要職も独占していた。土地所有の概念の
    なかったハワイで、ただのような値段で土地を買い占められ、
    また独立維持のために近代化を推し進める上でも、欧米人を政
    府要職につけるしかなかった。しかも欧米人の持ち込んだ淋病、
    天然痘などに免疫のなかったハワイ人は百年間で人口が30万
    人から5万人に激減するという危機に瀕していた。
    
     日本と同盟を結んで、アジア・太平洋地域に「同種族」の連
    合を形成し、白人の外来勢力の拡大を阻止して、独立を全うし
    ようというのが、カラカウア王の密かな夢であった。

■2.カラカウア王と明治天皇■

     3月10日夜、王はアメリカ人の随行員らを出し抜き、日本
    人通訳のみを連れて密かに赤坂離宮を訪れ、明治天皇との会見
    を乞うた。天皇側は夜中の訪問を不審に思ったが、とりあえず
    会見することとした。
    
     王は日本の伝統文化と近年の国家的隆盛を賞賛した後、ハワ
    イ王国の内憂外患の窮状を述べ、日本の協力を仰いだ。第一に
    日本人移民の実現。ハワイ人の人口減少を同一種族である日本
    人の植民で補おうというものであった。第二に、やがて王位を
    継がせる姪のカイウラニ王女と日本皇族・山階宮定麿親王との
    婚約の申し入れ。第三に、ハワイと日本の友好によって、将来
    の太平洋の発展に寄与したい、という三点であった。
    
     カラカウア王の行動に、ハワイの白人指導者層とアメリカ政
    府は警戒の念を抱いた。国務長官ジェームズ・ブレインは、ハ
    ワイ駐在米国大使ジェームズ・コナリーに次のような見解を示
    していた。
    
         過去30年間にわたって、アメリカは、合法的に北太平
        洋における支配的影響力を獲得してきたので、我々に敵対
        する勢力の侵入によって、我々の影響力が減少するのを認
        めるわけにはいかない。
        
     ハワイと日本の皇室が婚姻関係を結ぶことは、米国の敵とな
    る事を意味する。ペリーの砲艦外交に屈して開国し、明治維新
    後わずか14年の日本には米国と対抗する力はなかった。翌年、
    明治天皇はカラカウア王に特使を派遣して、婚姻の議は謝絶し
    た。「日本の皇室にはそのような前例がないこと」「米国の勢
    力圏に立ち入るのを好ましくないと判断」したことを理由に挙
    げた。[a]
    
     しかし、移民については、ハワイ側から再三の要請があり、
    1885年には官約移民が実現した。ホノルルに到着した日本移民
    のための歓迎会には、王自身が参加し、日本酒が振る舞われ、
    ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会が催された。日系移民は続
    き、20世紀初頭には日系人人口が全体の4割と民族別では最
    大の割合を占めるようになった。

■3.ハワイ王朝の最後■

     カラカウア王の動きを封ずるべく、米人勢力は1887年6月
    30日、13人委員会なる代表団が新憲法を起草し、白人武装
    集団「ホノルル・ライフルズ」の圧力のもとに、24時間以内
    に承認の署名を行うようカラカウア王につきつけた。これは王
    の政治的行為はすべて議会の承認を必要とし、さらにその議会
    選挙では、土地所有を有権者の条件としてハワイの人口の約3
    分の2、すなわち多くのハワイ人とほとんどすべてのアジア人
    を選挙から排除するものであった。銃剣のもとで、カラカウア
    王が署名させられたこの憲法は「銃剣憲法」と呼ばれた。
    
     1891年1月、病死したカラカウア王の後を継いで、実妹のリ
    リウオカラニ女王が即位した。女王は1893年1月14日、ハワ
    イ人にも選挙権を与える新憲法の発布をしようとし、翌日には
    イオラニ宮殿前では数千人のハワイ人が集まって、女王支持の
    デモを展開した。
    
     白人側はこれを機に一気に王制打倒に動き出した。米国公使
    スティーブンスは、16日に「血に飢えた、そして淫乱な女王
    が恐怖の専制王権を復活させようとしている」と訴え、「米国
    人市民の生命と財産を守るために」と、ホノルル港に停泊中の
    米軍艦「ボストン」から、海兵隊員160余名を上陸させ、政
    府庁舎や宮殿近くを制圧した。軍艦ボストンの主砲はイオラニ
    宮殿に照準を合わせた。
    
     白人有力者たちは臨時政府を組織し、女王は流血を避けるた
    めに王権を放棄した。2月1日、スティーブン公使は臨時政府
    をアメリカの保護下に置くことを承認し、ハワイ政府庁舎に星
    条旗が掲揚された。そして「ハワイの実(西洋梨)は完熟し、
    今こそアメリカがそれをもぎ取るのに、黄金の時が訪れてい
    る」とフォスター国務長官に、ハワイ併合を訴えた。

■4.日本軍艦、現る■

     この混乱の中で、米国政府をも驚かす事件が起きた。アジア
    の小国日本が軍艦を差し向けてきたのだ。2月23日、巡洋艦
    「浪速」、さらに5日遅れて「金剛」が相継いでホノルル港に
    入り、「ボストン」の隣に投錨した。「浪速」の艦長は東郷平
    八郎、後に日本海海戦を指揮して世界に勇名を馳せた名提督の
    若き日の姿である。
    
     カラカウア王の要請した日本からの移民は、1885(明治18)
    年から始まり、この年までに2万5千人に上っていた。その日
    本人移民の「生命と財産を守るため」というのが、表向きの理
    由だったが、女王側からの緊急要請があったとも言われる。
    
     入港した「浪速」は、臨時政府には挨拶も行わなかった。女
    王の側近が東郷艦長と長時間の密議を持ったという噂も流れた。
    地元紙は日本と英国が組んで米国と開戦する可能性まで論じた。
    日本の2艦は米人たちに無言の圧力を与えたのだろう。
     
     「浪速」は3ヶ月ハワイに留まった後、いったん帰国、一年
    後に再び姿を現した。臨時政府は「建国一周年」を祝う21発
    の礼砲を要請したが、東郷艦長は「その理由を認めず」と突っ
    ぱねた。ホノルル軍港の各国軍艦はこれにならい、クーデター
    一周年は「ハワイ王朝の喪に服するような静寂の一日に終わっ
    た」と伝えられている。
    
     ハワイ人の間では日本の軍艦が味方してくれたという話が語
    り継がれ、子どもにトーゴーと名づけたり、ある地域では「ナ
    ニワ」が「ありがとう」の意味で使われたりしたという。

■5.盗まれた楽園■

     臨時政府側にとって誤算だったのは、クーデター直後の3月
    4日に就任したクリーブランド大統領が、ハリソン前大統領と
    は違って、ハワイ併合に消極的だったことだ。クリーブランド
    大統領が派遣した特使は米国旗を降ろし、米兵たちに自艦に戻
    るように命じ、さらにこの革命はスティーブンス公使と現地白
    人有力者たちの画策であったと本国に報告した。
    
     大統領は議会で、「ハワイは誰もが同意も希望もしなかった
    のに、アメリカの軍事力によってアメリカの所有物になってし
    まった。アメリカによるホノルルの軍事占領はまったく正当化
    できるものではない」と主張し、「アメリカの名誉と正義のた
    めにも、あらゆる努力を真剣にはらって償いをなすべきであ
    る」と、王政復古への援助を示唆した。
    
     臨時政府側は、ハワイ併合までには時間がかかると判断して、
    アメリカ公使と米軍がとった行動は臨時政府側の責任ではなく、
    またクリーブランド政権の姿勢はハワイへの内政干渉だとして、
    突っぱねた。そして1894年7月4日、アメリカの独立記念日を
    わざわざ選んで、新憲法の発布を行い、正式なハワイ共和国と
    して出発した。新憲法では選挙権は高額の財産を持ち、王政復
    古に加担しないという宣誓を行い、英語かハワイ語を読み書き
    できることという条件をつけたので、大多数のハワイ人と日系
    移民を含むほとんどのアジア人は周到に政治権力から遠ざけら
    れていた。
    
     翌95年1月、大勢のハワイ人王統派が武装蜂起したが、2週
    間で平定された。リリウオカラニは参加していなかったが、武
    器弾薬が庭に埋められていたとして反逆罪で逮捕された。1年
    以上の幽閉の後、共和国への忠誠を誓い、一般市民として静か
    に余生を送るという誓約書に署名した。
    
    「アロハ・オエ」はリリウオカラニの作曲である。人間、自然、
    神との一体感を甘く物悲しい旋律で歌ったこの名曲は、最後の
    女王による盗まれた楽園への挽歌になってしまった。

■6.「モンゴル化(黄色人種化)」の脅威■

     こうした白人特権階層の動きに対して、人口の4割を占める
    日系人と、日本政府はどのような態度をとったのか? カラカ
    ウア王の時に結ばれた日本・ハワイ渡航条約で約束されていた
    日本人移民の参政権が、銃剣拳法によって否定されてしまった
    ので、日系人たちはその参政権回復要求に絞った活動をしてい
    た。日本政府も、アメリカを刺激しない範囲で、日系人が白人
    と同等の参政権その他の地位を獲得することを目指していた。
    軍艦「浪速」の派遣も、その一環であった。
    
     しかし、ハワイの白人支配者層は、日本側の対応を野心の証
    として見た。ハワイが日系移民によって「モンゴル化(黄色人
    種化)」するという脅しは、アメリカに併合を迫る上での格好
    のテコと考えられた。
    
     そして渡航条約によってやってきた日本の移民に対して、手
    続きが不備だとして、上陸を拒否した。あえて日本政府との間
    に紛争を起こし、米国内で併合派への支持を集めようとの画策
    である。日本政府は条約違反を抗議するために三たび、軍艦
    「浪速」を派遣して、損害を賠償し、今後はそのような不法行
    為を行わないようハワイ政府に要請した。ハワイ政府は対日交
    渉を引き延ばして、「日本から迫り来る危険」の深刻さを世論
    に訴えた。

     1897年3月にマッキンリー大統領が就任すると、ハワイ共和
    国のハッチ駐米公使は、新国務長官ジョン・シャーマンに面会
    し、早期併合の希望を伝えた。その中でハッチは、ハワイの日
    本人が暴動を起こしたら、ハワイ政府ではアメリカ人の人命、
    財産の保護が困難かもしれないとし、「私には急速に日本人問
    題の危機が近づいているように思われる。どこかで断固とした
    処置が講じられないと、あの国(ハワイ)を日本にやってしま
    うことになる」と訴えた。
    
     一方、時の首相・伊藤博文はアメリカ外遊中に米紙のインタ
    ビューに答えて、「日本がハワイを併合しようとしているとい
    うのは、まったく根拠のないことだ。日本国民が望んでいるの
    は、公平な待遇であり、ハワイとの条約上の権利にしかるべき
    配慮がなされることである」と述べた。ロシアからの圧力が増
    大しつつあったこの時期に、アメリカと事を構える余裕は日本
    にはなかった。

■7.東洋文明と西洋文明の来るべき大闘争の前哨戦■

     アメリカ国内でハワイ併合を強く支持していたのは、海軍戦
    略家アルフレッド・マハンを理論的支柱として、大海軍建設と
    植民地獲得による「海上権力」を求める一派であった。マハン
    の主張によれば、日本とハワイの間の移民紛争は目覚めつつあ
    る東洋文明と西洋文明の来るべき大闘争の前哨戦に過ぎず、真
    の争点は、太平洋の要を支配し優位を占めるのが野蛮なアジア
    か、それとも西洋文明国のアメリカかということであった。
    
     このマハンに時の海軍次官、次期大統領となるセオドア・ル
    ーズベルトは次のような手紙を送っている。
    
         我々はハワイ諸島を明日にでも併合すべきだ。私の信念
        では、日本が英国に発注した戦艦2隻が英国を離れる前に、
        我々はともかくもハワイのそこら中に星条旗を掲げ、細々
        とした問題はその後に片づければいい。そしてニカラグア
        運河(のちのパナマ運河)を早急に建設し、12隻の戦艦
        を作って半分は太平洋に配置すべきだ。私は日本の脅威を
        現実のものとして感じている。
        
■8.海洋帝国アメリカの登場■

     1898年1月、スペイン領だったキューバで独立戦争が激化す
    ると、アメリカは在留米人を保護するためとして、戦艦「メイ
    ン」号を派遣したが、ハバナ港内で突如爆発・沈没する事件が
    起きた。米国内ではこれをスペインの謀略と決めつけ、「リメ
    ンバー・メイン」の声が巻きあがった。ルーズベルトはスペイ
    ンとの開戦直後に、米艦隊をフィリピンに送り、スペイン艦隊
    を撃滅して、マニラ湾を占拠した。[b]
    
     スペインとの聖戦意識が高揚する中で、フィリピンでのアメ
    リカ軍を支援するためにも、ハワイを併合して、補給基地・真
    珠湾を確保すべきだとの世論が急速に盛り上がり、7月7日議
    会でハワイ併合が議決された。
    
     アメリカは、スペインからプエルトリコ、グアムを割譲させ、
    キューバを軍事占領して事実上の保護国とした。さらにフィリ
    ピン独立を目指す「革命軍を援助する」というふれこみでスペ
    イン軍と戦わせ、勝利を得ると一方的にスペインと講和条約を
    結んでフィリピンを植民地とした。[c]
    
     1901年、ルーズベルトは20世紀最初の大統領となった。そ
    して米国に協力を拒むコロンビアからパナマ共和国を独立させ
    て、運河の建設、使用権を得て、1914年に開通させた。これに
    よって、20世紀初頭の米国はアメリカ東海岸からカリブ海、
    パナマ運河、ハワイ、グアム、フィリピンに至る一大海洋帝国
    として登場した。あとは「日本の脅威」を除けば、太平洋はア
    メリカの内海となる。
                                          (文責:伊勢雅臣)

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