2014年8月5日火曜日

東銀座のナイルレストランの歴史を読んで

2014年8月5日

印度料理専門店ナイルレストランの歴史 サイト


A.M.ナイル




 レストランの創業者A.M.ナイルは、インドのケララ州に生まれ、高校生の時インド独立運動に参加し警察に目をつけられたため、兄の留学先である日本に留学することになった。
 1928年に京都帝国大学の工学部に入学し、日本陸軍の将校とインドから亡命していたラシュ・ビハリ・ボース(中村屋のボース)と出会った。



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ラス・ビハリ・ボース


(ベンガル語:ラシュビハリ・ボスゥ)  ウィキペディア

 インドのベンガルで生まれる。

 近代インドを代表するヒンドゥー教指導者オーロビンド・ゴーシュの宗教哲学に影響を受ける。

 1914年日本に亡命。

 孫文、大川周明と親交あり。

新宿中村屋のカレー誕生秘話 サイト






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相馬愛蔵



新宿中村屋の創業者 相馬愛蔵 ウィキペディア



1904年にはシュークリームをヒントに現在もポピュラーな菓子パンであるクリームパンを考案した。1927年には現在の中華まんのもととなる「中華饅頭」を発売。これが現在の中華まんの始まりとも言われている。

フランスパンを日本で最初に発売した京都の進々堂創業者の続木斎や、山﨑製パン創業者の飯島籐十郎も相馬のもとで勤務していた。

新宿本店には愛蔵・良の人柄に惹かれた文化人が盛んに来店していた。その中にロシアの童話作家ヴァスィリー・エロシェンコもおり、彼がレシピを伝えたボルシチも、前述のカリーと並び本店レストランの開店以来の人気メニューである。ただし、このボルシチはテーブルビートの代わりにトマトを使用した物である。また、エロシェンコが着用していたロシアの民族服ルバシカも、その機能性から店員制服として採用されている。


  • 関東大震災で難民となった人々が新宿へと逃れてきたとき、便乗して高額な商品を売りつけるような真似をせず、安価なパンなどを連日販売して人々の飢えを満たした。『奉仕パン』『地震饅頭』などと大書して販売していた写真が現存している。
  • 昭和金融恐慌取り付け騒ぎが発生し、取引先の安田銀行に預金を確保しようとする人の列が出来た。その際、部下に金庫の有り金を全て持たせてかけつけさせ、「中村屋ですがお預け!」と大声を出させることによって群衆のパニックを収めた。
  • 1928年に海外の実業界を視察するため欧州を訪問した際、「西洋人が日本に来ても日本の着物を着ずに自分たちの服装で堂々としているのに、日本人だけが着物を脱いで、似合わない洋服を着るのはおかしいうえ、格好が悪い」という考えから、常時着物で押し通し、大歓迎を受け、着物姿のほうが正装になり、厚遇を受けることを実証してみせた[1]。また、西洋人は対等でないと思った人間に対してはすぐに奴隷のようにみなすことを指摘し、日本人留学生たちが気弱のため馬鹿にされていることを嘆き、彼らの高すぎる家賃を大家と交渉して値下げさせたりもした[2]。商交渉においても対等的な態度がいかに重要かを説いている。

  • 『一商人として』 - 商人のあるべき姿と商売の要諦を教示
  • 『私の商賣』 - 商人としての面白さ、喜びを記した本
  • 『商店經營三十年』 - 新宿への百貨店進出に対する策をまとめた本

商店經營三十年



目次
第一部 百貨店對抗策硏究 = 3
小賣商は如何にしてデパ-トと 鬪ふべきか = 5
各地に進出する百貨店 = 5
敎へらるる百貨店の經營法 = 7
小賣商人は親切と廉價を賣れ = 8
日本商船はどうして客をとる? = 9
重稅に泣く小賣商人 = 11
小賣店には小賣店の道がある = 13
經費節約が第一 = 13
仕入と問屋敎育 = 16
販賣經費の比較 = 18
「見識」と「硏究心」 = 21
何が小賣商を更生させるか = 23
日本商人道の破壞 = 23
小賣店獨特の戰術 = 25
小賣店更生の方法 = 27
百貨店の先手を打て = 30
最も肝心な二つの方法 = 33
全國小賣商のため富局の反省を促す = 35
小實店の旣得權擁護 = 35
商品切手課稅問題 = 37
夜間營業の是非 = 38
賣上に累進稅を課せ = 39
泣寢入りは禁物(收益稅審査會連開の講求書) = 41
不景氣打開と販賣稅 = 45
百貨店の沒落行程(『大上野』計劃座談會にて) = 63
何が百貨店を有利ならしめてゐるか(不景氣の眞相を解く座談會にて) = 66
百貨店に對する小賣店の不見識 = 66
百貨店の稅金は個人より安い = 68
不合理な商品券 = 69
百貨店と競爭はおろか(四谷發展策座談會に於て) = 71
小さき者の生きる途 = 76
或る校長先生の話 = 76
五干圓と五千萬圓 = 79
小賣商人の反省すべき點 = 80
小賣店には小賣店のゆき方がある = 82
第二部 我が商業道 = 89
正札禮讚 = 89
商店經營の實感(其一) 日本大學, 小賣商問題講演會にて) = 90
商店經營の實感(其二) 專修大學, 第五十七週年記念講演) = 109
我が商業道(産業講習會に於ける講演) = 122
商賣は公明正大 = 122
商賣は社會奉仕の一 = 123
商賣の基は勉强 = 124
秘訣の第一は正札責賣 = 126
無料配達폐止 = 127
中元歲暮폐止 = 129
御用聞き폐止 = 131
大賣出しの可否 = 133
大賣出しは一種の注射 = 135
製造販賣能率の平均 = 136
賃餠開始の苦心 = 137
商賣は地味にやるべし = 139
家賃のこと = 139
販賣のこと = 140
廣告費のこと = 141
仕入のこと = 142
信念の商道 = 143
獨立自尊の精神 = 143
新商人道を提唱す = 146
商賣繁昌と女主人 = 151
經營餘談 = 154
理窟通りにゆかぬもの = 154
廣告も考へもの = 156
配給費の問題 = 157
いくら岩崎でも = 159
顧客敎育 = 160
たとへ顧客でも = 161
ょい商品が最上の奉仕 = 164
能率の平均 = 165
繁昌のユツ = 166
店員の敎育 = 169
店頭漫談 = 171
或る記者との一問一答 = 177
新宿進出の動機 = 193
所謂家相 = 200
山田半次郞氏の十八ケ條 = 204
第三部 從業員の待遇 = 209
從業員の待遇 = 209
無差別待遇 = 209
鐵拳制栽嚴禁 = 210
御用聞きに出さぬこと = 211
往宅手常, 老人手當, 子供手當 = 212
利益分配 = 214
未解決の休暇問題 = 214
店員の休暇に就いて = 215
店員に規則は無用 = 217
スタンレ-·オホツキ-の事 = 222
店員の特來に對して如何に導くべきか = 225
店員の小遣ひと待遇 = 229
店員の盜癖に就いて = 232
新時代の人格養成 = 235
獨立は約束出來ぬ = 235
退店は敢て拒まず = 237
人格的人物養成 = 239
常に店員に感謝 = 240
第四部 一商人として歐洲を觀る = 245
歐洲を視察して = 245
今흘の放行者と違つた點 = 246
海上四十日間の所感 = 247
奪はれた商權 = 249
而して我國を顧れば = 250
百貨店の硏究 = 252
百貨店に對抗する戰術 = 254
大建築物の家屋稅ほ市の財源 = 255
大商店に重く小賣店に輕い課稅, 日本は反對 = 256
商品切手は紙幣類似 = 257
世界に雄飛する米人經營の商店 = 259
個人商店に望む = 260
自分は個人的商店の長所を發揮 = 261
宮樣でさへ貸間に御往居 = 263
日本象屋の氣轉の善い所 = 264
立派な喫茶店 ― でも內幕は苦しい = 265
公園が賑ふのも喫茶店の繁盛するのも同じ理由 = 266
鷄小屋だと思つたら人問の小屋 = 268
日本服で押し通した = 270
日本服の便利な點 = 273
動くには洋服がよし = 273
商人が一國の主人同樣 = 274
雜談餘祿 = 277
生クリ-ムとバタの話 = 277
デンマ-タの農業に就いて = 281
不味かつたフランスのパン = 283
留學させることも考へもの = 285
馬鹿にされる日本留學生 = 287
遠慮は禁物 ― 彼等に負けるな = 288
嫌はれてゐても勢力ある猶太人 = 290
安價なパンと牛乳 = 292
外國貿易と三井物産 = 294
失敗外交の意外の收獲 = 298
ヱビアンの水 = 301
歐洲旅行漫談(ラヂオ放送) = 303
第五部 小賣店經營の實際 = 317
田舍人が東京ヘ來て失敗する埋由 = 318
一. 普通の商家の內幕を知らず = 318
二. 開店場所の選擇を誤るにあり = 320
三. 地方と都會との差別を知らざるにあり = 322
四. 家の位置構造に注意せざるに因る = 323
五. 地方の事情を以て東京を律せんとする = 324
六. 裝飾と仕入の呼吸と知らず = 325
七. 店員使用法を心得ず = 327
新たに商店を開く注意 = 328
一. 場所の選擇 = 328
二. 地理上の關係 = 331
三. 營業の種類と客筋 = 332
四. 商店と日受 = 334
五. 建築の注意 = 335
六. 間口と資本の關係 = 336
七. 古株の價値 = 337
八. 地方人と東京人との嗜好の相違 = 339
田舍人の多く着手する商業の種類及びその賣相 = 342
一. 下宿屋 = 342
二. 文房具屋 = 346
三. ミルクホ-ル = 347
四. 薪炭商 = 349
五. パン屋 = 351
時代の移り變りに伴ふ商賣のやり方 = 355
如何なる種類の事業に利益多きか = 355
名物にうまいものなし = 356
東京の小賣相場の高き理由 = 358
交通機關と大商店の發達 = 360
雇はれる人と雇ふ人 = 362
學校出身者の多くは被雇人に終る = 362
小僧上りに立身者多き理由 = 366
今日の成功者は僥倖兒なり = 367
大商店に奉公せんよりは小商店を選ベ = 371
書生上りの職人 = 373
苦學生探用の可否 = 374
小僧と中年者及び小僧の適齡 = 377
店員に日曜休暇を與ふるの可否 = 380
從來の小僧制度を改むべし = 383
職人小僧は如何に導くべぎか = 387
主人と雇人の食物 = 390
店員の容貌と商賣の繁榮 = 393
商人の自尊心と商業の快味 = 396
商人の卑屈根生と得意の傲慢 = 396
商人としての盆暮の物品贈答 = 401
商賣の快味 = 403

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オーロビンド・ゴーシュ 


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1907年ヴィシュヌ・バスカー・レレと呼ばれるマハラシュトラ州のヨーガ修行者に会う。

インド哲学者であるヴィヴェーカーナンダに会う。


オーロヴィル(Auroville)とは、インドのタミル・ナードゥ州ヴィリュップラム県にある国際的な共同体のこと。
インド人思想家・宗教家であるオーロビンド・ゴーシュのパートナーであったフランス人女性ミラ・アルファサ(Mirra Alfassa)によって、1968年に設立された。
世界中の人々が、民族・国籍・思想信条を乗り越えて調和することが目指されている。







オーロヴィル 


日本語サイト facebook(英語) 記事

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ヴィヴェーカーナンダ


ウィキペディア



普遍宗教

ヴィヴェーカーナンダはまず、宗教が様々な教えに分かれているという現実を見つめる。霊性の世界では世界の人々を統一する唯一の教えなど生まれようがない。1つの教典から50年経たないうちに20もの宗派が生まれる。まして教典が違う宗教の間に差異が生じるのは尚更のことだ。ヴィヴェーカーナンダはその違いを認めた上で、積極的に評価する。人が思考する限り、宗派は増え続ける。ならば大いに増えるべきだと。活動を生み出すには2つ以上の力の衝突が必要である。多様は生命の第一の原理であり、全てが同一というのは静止した死の世界だ。問題となるのは自分だけが正しいと思い込み、他の教えを抹殺しようとすることだ。彼は「相手の教えを壊すな」、「低いと思われる教えは引き上げよ」という。彼によれば宗教の教義上の違いは矛盾ではなく、1つの真理に対する異なったアプローチである。それらは違いにより補い合う。1つの教義に真理は収まりきらない。多様な宗教の全体が真理である。

 真理とは狭量なものではなく、ひたすら広い。それは仏教もキリスト教もイスラム教もヒンドゥー教も全てを含む、彩り豊かな全体としての神の啓示である。

 特定の時と場所に現れる有限な宗派に囚われず、大いなる視点から諸宗教の協調を目指す普遍宗教の理想は、頑迷な宗派意識への痛烈な批判だった。ヴィヴェーカーナンダは、宗派が争いではなく協調を始めたときに生まれる大きな力に期待を寄せる。人間にとって魂の探求、神の光の探求ほど多くのエネルギーを費やさせたものはないからだ。なぜ宗教がそこまで大きな力を持つのかといえば、無限という理想を宗教が内に宿しているからだという。感覚界のなかで無限という理想を求めても必ず挫折する。例えば無限の感覚的快楽など不可能である。無限という理想は超感覚の世界の中に見出される。ヴィヴェーカーナンダは、あらゆる宗教に共通な要素は感覚の限定を超えようとする努力だという。自然の背後に働く大いなる力を見るのも、先祖の霊魂を崇拝するのも、霊の啓示を受けるのも、悟りを開いて永遠の法則を理解するのも、超感覚的なものに対する関わりだ。宗教の対象は絶対あるいは無限であるがゆえに人間の理性や感覚に収まりきらない。物質に留まることもない。感覚の限定を超え、無限なるものと合一するのが最高の理想なのだと彼は主張する。そして合一のための手段として彼はヨーガを提唱する。活動的、精神分析的、宗教的、哲学的といった様々なタイプの人間が己の性格に合った方法としてとるべきヨーガがある。それぞれカルマ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガと呼ばれる。これらはヴィヴェーカーナンダの独創というわけではなく、『バガヴァッド・ギーター』やヨーガ学派の思想を彼が再編成し、人間の生全体に当てはめたものである。

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ラーマクリシュナー


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スバス・チャンドラ・ボーズ

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Subhas Chandra Bose.jpg


インドの独立運動家、インド国民会議派議長(1938 ~1939年)、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。民族的出自はベンガル人。ネータージー(指導者、नेताजी, Netāji。ネタージ、ネタジ とも)の敬称で呼ばれる。なお、スバスの部分は、シュバス (Shubhas) とも発音される。


1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のベンガル州カタク(現在のオリッサ州)に生まれた。

父親は弁護士で、インド人の人権を教護することもしばしばであった。

ボースはこの父親から大きな影響を受けたと後に語っている[1]。カルカッタ大学に進んだ。

大学ではイギリス人教師の人種差別的な態度がインド人学生の反感を買い、学生ストライキが勃発した。ボースは首謀者と見られ、停学処分を受けた[1]。

カルカッタ大学で学士号を取得し、1919年、両親の希望でイギリスのケンブリッジ大学大学院に留学した。大学では近代ヨーロッパの国際関係における軍事力の役割について研究し、クレメンス・フォン・メッテルニヒの妥協無き理想主義に感銘を受けたと回想している[1]。


独立運動

1920年にはインド高等文官試験を受験した。ボース自身の回想では試験には合格したものの、このままではイギリス植民地支配の傀儡となるだけだと判断して資格を返上した[1]。ただし、二次試験の乗馬試験で不合格となったという異説も存在する[1]。いずれにせよこの頃からボースはインド独立運動に参加するようになっていった。
1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。ボース自身は「ガンディーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」という信念を抱いており[1]、ガンディーの非暴力主義には強く反対していた[1]。1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されビルマのマンダレーに流される。釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出されたが、チャンドラ・ボースの独立志向とその影響力を危惧したイギリスの植民地政府の手により免職された。
その後も即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍し、勢力を伸ばした。ガンディーは組織の分裂を心配し、1938年度の国民会議派議長に推薦した[2]。ボースはインド独自の社会主義「サーミヤワダ」を提唱し、若年層・農民・貧困層の支持を集めた。この成果に自信を持ったボースは翌年の国民会議派議長に立候補した。議長はガンディーの指名によって決定されることが慣例になっていたが、ボースはガンディーの推薦するボガラージュ・パタビ・シタラマヤ(英語版)に大差をつけて勝利した。しかしこの行為はガンディーの支持を失わせることになり、ガンディーを支持する国民会議派の多数派からの支持も失わせることになった[2]。ボースはやがて議長辞任を余儀なくされ、さらに三年間役職に就けない処分を受けた[2]。議長退任後には前進同盟を結成し、独自の活動も開始した。

亡命

1939年9月の第二次世界大戦開戦、つまりイギリスとナチス・ドイツの開戦を知ったボースは、「待望のイギリスの難局がついに訪れた。これはインド独立の絶好の機会である」と述べ[2]、独立のための武装闘争の準備を開始した。ボースは被搾取民族にとって独立達成こそが先決であり、反英諸国のイデオロギーについて論争する「贅沢な余裕はない」という見解を持っていた[3]。1940年6月、フランス降伏とドイツ軍によるイギリス上陸が迫ったことを知ったボースはガンディーの元を訪れ、広範なレジスタンス蜂起のためのキャンペーンを行うように求めた。しかしガンディーは闘争のための準備ができておらず、現在の蜂起は犠牲が大きいとして要請を拒否した[3]。7月には大衆デモの煽動と治安妨害の容疑で逮捕され、戦後まで収監される予定となった。ボースは反英諸国の支援を受けて国外でインド人部隊を結成し、インドに侵攻して民衆蜂起とともにインド独立を達成する計画を立て、脱獄の機会を待った。獄中でハンガーストライキを行い、衰弱のため仮釈放されていた12月にインドを脱出、陸路アフガニスタンを経て、ソビエト連邦に亡命しようとした。
当時ボースはインドを解放できる国はソ連だけだと考えており、社会主義的思想の点からも親近感を持っていた[4]。ボースはカーブル駐在のソ連大使と交渉し、モスクワ行きの許可を得ようとしたが、大使はボースの入国を認めなかった[3]。ボースはイタリア大使アルベルト・カローニの協力を得て、イタリア外交官に偽装してドイツに向かった。1941年4月2日、ボースはドイツのベルリンに到着した。


ドイツでの活動

カーブルでボースの世話をしていた元国民会議派のウッタム・チャンドの回想では、ボースはドイツを「イギリスと同じぐらい」嫌っており、ドイツにいてもソ連に向かうための交渉を行っていたと見ている[3]。それでも4月9日にはドイツ外務省に対し、枢軸国軍によるインド攻撃を含む、インド独立のための構想の覚書を提出している。この覚書に直接の回答は無かったが、4月29日にはヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相と会見する機会を得た。しかし「インドでの蜂起と枢軸国軍によるインド攻撃という計画をドイツが受け入れるには2年間は待つ必要がある」という冷淡な回答があるのみであった[5]。
アドルフ・ヒトラーはインド独立運動家を「ヨーロッパをうろつき回るアジアの大ぼら吹き」と呼び、「インドは他の国に支配されるよりは、イギリスに支配されるほうが望ましい」と『我が闘争』に記していた[5]。1941年9月の食卓談話でも「イギリスがインドから追い出されるなら、インドは崩壊するであろう」述べるなど、イギリスによるインド支配が継続されるべきであると考えていた[5]。このためドイツはボースにベルリン中央部の広大な邸宅をあたえ、自動車や生活資金も供与した[6]ものの、独立運動への直接的な協力には極めて冷淡であった。
6月にはローマを訪れ、イタリア王国のムッソリーニを通じてドイツに影響を与えようとしたが、外相ガレアッツォ・チャーノと面会できたのみであり、ムッソリーニとは会うことすらできなかった[7]。ローマ滞在中にはドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が開始された。ボースはこれに憤慨し、「インドの民衆はドイツが侵略者であり、インドにとってもう一つの危険な帝国主義国であると理解するであろう。ソビエトとの戦争は悲惨な失敗に終わるであろう。」という抗議をリッベントロップ外相に送っている[8]。
それでもボースはあきらめることなく、ドイツ外務省との交渉を行った。これをうけて外務省情報局内には特別インド班が設置され、インド問題の専門家とともに活動できるようになった。11月には外務省によって「自由インドセンター」が設立され、在外公館として認可された。同センターはインドに対する宣伝工作を行うとともに、北アフリカ戦線で捕虜となったインド兵から志願者を募り自由インド軍団(兵力3個大隊、約2,000人)を結成した(後の第950連隊(英語版))。ボース自身も積極的に反英プロパガンダ放送に参加した。しかし対英和平の可能性を探っていたヒトラーは、インド独立に対する支持を明確化することは、和平交渉において不利になると考えていた[8]。ボースがドイツ政府とヒトラーに求めていた『我が闘争』のインド蔑視部分の説明と、インド独立に対する支持の公式な表明は両方とも拒絶された[8]。


日本への移動

1941年12月、日本がアメリカ・イギリスと交戦状態に入った(太平洋戦争)。ボースはマレー作戦での日本軍の進撃を知ると、「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期にヨーロッパの地に留まっていることは、全く不本意の至りである」として、日本行きを希望して大使館と接触するようになった。しかし日本大使館は「考慮中」という対応しか示さなかった[9]。日本陸軍参謀本部はインド情勢に対する分析が不充分であり、ボースの利用価値についてほとんど認識していなかった[9]。
マレー作戦の後、日本はインド方面への侵攻を本格化させ、1942年4月にはセイロン沖海戦で連合国海軍を破った。おりしも北アフリカ戦線で枢軸軍がスエズ運河に迫っており、ドイツ側も日本に対して対インド方面作戦の強化を働きかけていた。しかしガダルカナル島にアメリカ軍が上陸すると、インド方面の戦力は減少することとなった[10]。
6月15日に日本が占領下に置いた元イギリス領のシンガポールを拠点として、ラース・ビハーリー・ボースを指導者とするインド独立連盟(英語版)が設立された。連盟の指揮下にはイギリス領マラヤやシンガポール、香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていたインド国民軍が指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する国民軍司令官モハン・シン(英語版)と、時期尚早であると考えていた日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が強まっていた[9]。11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者をもとめるようになった。
国内外に知られた独立運動家であったボースはまさにうってつけの人物であり、またボース自身も大島浩駐独大使に強く日本行きを働きかけた。またインド独立連盟幹部のA.M.ナイルもボースを後継者として招へいすることを進言した。しかし陸路・海路ともに戦争状態にあったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。その結果、空路よりは潜水艦のほうが安全であると結論が出、1943年2月8日、ボースと側近アディド・ハサン(英語版)の乗り込んだドイツ海軍のUボート U180はフランス大西洋岸のブレストを出航した。4月26日、インド洋マダガスカル島東南沖[11]でUボートと日本海軍の巡潜乙型伊号第二九潜水艦が出会い、翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ[12]。5月6日、潜水艦はスマトラ島に到着した。現地で飛行機便を待ち、5月16日に東京に到着した[12]。


自由インド仮政府

東京に到着したボースはビハーリー・ボースやナイルらと合流した後、ビハーリー・ボースの後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任した。

当初日本の東條英機首相はボースを評価しておらず、ボース側の会見申し入れを口実を設けて拒絶していた[13]。しかしボース来日から一ヶ月後に実現した会見で、東條首相はボースの人柄に魅せられ、一ヶ月後の再会談を申し入れた[13]。再会談でボースと東條は日本とインドが直面している問題に関する意見を一致させ、東條はその後食事会にボースを招待している[13]。


東條はボースの影響でインドに対する考え方を新たにし[13]、またボースの東亜解放思想を自らが提唱する大東亜共栄圏成立に無くてはならないものだと考えていた。ボースは10月21日にシンガポールで自由インド仮政府首班に就任し、11月の大東亜会議にはオブザーバー[要曖昧さ回避]として参加する。ボースはそのカリスマ的魅力で、国民軍の募兵を積極的に行った[14]。

その後ボース率いるインド国民軍は、インドの軍事的方法による解放を目指して、1944年1月7日、ビルマのラングーンに本拠地を移動させた。ボースは同地においてビルマ方面軍司令官河辺正三中将と出会った。

河辺中将は歓迎の宴席で示されたボースのインド独立にかける意志と、その後の態度を見てボースに惚れ込み、「りっぱな男だ。日本人にもあれほどの男はおらん」と極めて高く評価するようになった[15]。

河辺中将は日本軍によるインド侵攻のためのインパール作戦の作戦の指揮を執ることになるが、「チャンドラ・ボースの壮図を見殺しにできぬ苦慮が、正純な戦略的判断を混濁させたのである」と、作戦実行の背景にボースに対する日本軍側の「情」があったとしている[14]。

ボースは国民軍をインパール作戦に参加させるようたびたび要求し、日本側を困惑させた[16]。6月にはすでに作戦の失敗は明らかであったが、河辺中将は「この作戦には、日印両国の運命がかかっている。一兵一馬でも注ぎ込んで、牟田口(牟田口廉也第15軍司令官)を押してやろう。そして、チャンドラ・ボースと心中するのだ。」と考えていた[17]。

インパール侵攻の失敗により、インド国民軍はその後、主にビルマで連合軍と戦った。


事故死

日本の敗戦により、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることは不可能となった。ボースはソ連に協力を求めるために、日本軍関係者の協力を受けて満州へ向かおうとした。ボースは満州でソ連軍に投降し、それから交渉を行うつもりであった[17]。1945年8月18日午後2時、ボースは台湾の松山飛行場から大連へ向かう予定であった九七式重爆撃機に乗り込んだ[18]。乗り込む直前には一人のインド人に「東南アジア在住300万のインド人からの贈り物」である宝石・貴金属の入った二つのスーツケースを受け取った[18]。しかし離陸直前に左側プロペラが外れ、機体はバウンドして土堤に衝突、炎上した[18]。
操縦士の滝沢少佐、同乗していた四手井綱正中将と士官一名は即死し[18]、ボースは大やけどを負った。ボースは台湾陸軍病院の南院に運ばれ、手当を受けた。死を悟ったボースは同乗していたが軽傷であったハブビル・ラーマン大佐に「インド独立の最後を見ずにして死ぬことは残念であるが、インドの独立は目捷の間に迫っている。それ故、自分は安心して死ぬ。自分の一生涯をインドの独立に捧げたことに対しては少しも遺憾がないのみではなく、非常にいいことをしたと満足して死ぬ。」[19]「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と告げた[20]。夜、当番兵がボースに何か食べたいものがあるかと聞くと、「カレー」と答えたようにに聞こえた[18]。当番兵がカレーライスを作り、スプーンで食べさせると、ボースは「グッド」と答えた。しかし2口3口食べると、ボースはそれきり動かなくなった。午後11時41分のことであった[18]。
大本営はボースの遺体を東京に送るように命じたが、夏期と火傷による損傷が激しく、現地で火葬することになった[19]8月20日、台北市営火葬場で荼毘に付され、台北市内の西本願寺で法要が営まれた。8月23日にボースの死が公表され、世界に伝えられた。


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