2013年2月23日土曜日

アーンドラダイニングにて10人のオフ会

2013年2月22日 金曜日 20時

アーンドラダイニング 食べログ

 TO.さん、モツさん、そしてお店のみなさま本当にありがとうございました。

そして、みなさんと一緒に食事をすることができ本当に楽しめました。

一人では味わうことのできない楽しさ。

料理の数々、つきない話題、そして早くもつぎのオフ会の算段。

エアーカレーを食べるシーンなどなど、数々の光景が目に浮かびます。


 ワイン、お酒どちらも料理に合い美味しく、気持ちよくさせてくれます。

 メインのカレーが来る前のラムカリフラワー、単品で食べるのがもったいないくらいです。

 バスマティライスカレー。ぼくらにデザートは不要です。

 カレーをたらふく食べることができたら本望です。

 4種類のカレーを堪能させていただきました。

  メティ・マトン : カスリ・メティ(フェヌグリークの葉)で味付けたアーンドラ地方の名物カレー

 まさに、未知との遭遇。

 たとえようにない美味しい味にはめったに出会うことができません。

 生のりのようだ、シソのようだという声もありました。

 結局このカレーが一番最初になくなってしまいました。

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知れば知るほど楽しくなる


・TO.(ティーオー)さん http://u.tabelog.com/000566135/




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ダバインディアの姉妹店3店情報

グルガオン:北インド料理専門店として1994年開店

ハリドワ-ル:1990年代後半にグルガオンのカジュアル・若者向けとして銀座に開店、2006年6月にテナントの関係で閉店

ダバインディア:南インド料理店として2003年5月開店

カイバル:2006年6月閉店したハリドワ-ルに代わり、同年11月にタンドール&北インド料理専門店として開店

 この系譜を見ると、元々北インド料理(タンドール含む)専門店2店を有するオーナーが、南インド料理の巨匠ラマナイヤシェフを日本に連れてきて店のデザインなどもさせて、南インド料理店としてダバインディアを開店。ただし、他2店で非常に評判が高かったタンドール料理(ナン、チーズクルチャ、肉・魚介焼き物)も出すこととした。

 2006年私が初訪問した時には既に現カマルプールの北村氏は日本一の繁盛店を完璧に掌握したフロアマネジャーだったので、開店準備からラマナイヤと一緒に係わったのではと、想像している。

 2008年にラマナイヤは去り、アーンドラキッチンの立ち上げに参画。並行して、2008年11月に開店した和印道を手伝う(あまり知られていない)。和印道のメニューに当時を偲ばせるものも残っているが、ラマナイヤ氏の思想が踏襲されていないため、現在は並のインド料理店である。2009年に横浜国立大学出身のインド人経営者と共に、アーンドラキッチンを開店させ、シェフを務める。2012年、同経営者と共にアーンドラダイニングを開店させ、シェフを務める。

 ラマナイヤが去った後のダバインディアは、代々シェフやコックは入れ替わっているが、北村フロアマネジャー及び現フロアマネジャーの柳谷氏などがラマナイヤレシピを守らせると共に常に味見して、レベルを維持向上している。

 2010年に北村氏はダバインディアを去り、自分の店の開店準備に入り、2011年6月にカマルプールをオープン。なかなか良い店舗候補が見つからず、フロアマスターを止めて1年ぐらいかかったかな。北村氏はプロの調理経験は無く、ラマナイヤが去った後に、仕事の合間にダバのコックに習ったとのこと。従ってラマナイヤの弟子と言うのは正確ではないが、ラマナイヤレシピの良き理解者で中身を全て熟知していたことが、今日あの絶品料理が出せる所以かと思う。開店当時のパートナーの女性の玉井さんはデリーのコック出身だがレシピは全て北村氏。玉井さんは当初の予定通り2012年8月末で離任し、同9月に原宿にオープンしたザグッドカレーショップの(多分雇われ)シェフに就任。なので玉井さんは北村シェフのレシピでラマナイヤの影響を間接的に受けたという、その程度の繋がり。

 ディルセの畑中オーナーシェフは、ホテルのレストランの厨房で仏・印・和の調理経験のあるプロの調理人で、バングラデシュの調理学校とホテルの厨房経験が2年ほどあり、その他のインド各地を巡った経験もあり。2007年から2010年までダバの厨房で勤務してラマナイヤの下で2年弱仕込まれる。2010年12月に開店したカッチャルバッチャルの手伝いをしながらディルセの開店準備を進め2011年後半にオーナーシェフとして開店。日本の調理人としてマトモにラマナイヤの指導を受けた唯一の人だと思います。

 カッチャルバッチャルの田村シェフは、二十歳のとき、新宿ボンベイの厨房を振り出しにインド料理の道に入り、その後、2年間ラジャスタンを放浪、日本に帰国後は、ダバインディア、グルガオンを経て、ハリドワールの店長。そしてふたたび新宿ボンベイを経て、2010年12月に、カッチャル・バッチャルを開業。なので、ダバが軌道に乗る創業当時に僅かに重なる時期は有るものの、大半の時期は同グループの他店シェフということで、ラマナイヤの影響は北村・畑中両氏程は受けてないと思います。

こういったことも頭に入れて、各店を、見比べ、食べ比べていただければ、楽しみも増すと思います。

*ラマナイヤシェフの略歴は以下の記事参照

http://tabelog.com/tokyo/A1311/A131101/13096305/dtlrvwlst/2239619/?use_type=0&PG=2&smp=0&lc=0&srt=&sby=


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ジュリアス・スージーさんのレビューより レビュー 

ラマナイア・シェフの、踊るアーンドラキッチン♪


ラマナイア・シェフは、
料理人の神話、生きている伝説。
かれは十歳のときからレストランの厨房に入り、
掃除担当から、人生をはじめた。
少年時代のかれにとっては、
三桁の掛け算よりも各種マサラの調合が大事で、
なぜなら、それはひとつひとつの料理の香りの構成を体で覚えることだから。
少年時代のかれにとっては、
地理や歴史の暗記よりも、おいしいドーサを俊敏にどんどん焼きあげることが重要、
なぜなら、高い質を維持しながら、なおかつ仕事が速い者こそが厨房の勝者だから。
英語の教科書で山のような例文を覚えるよりも、
満面の微笑みで、Thank you,madam.Thank you,sir.と囁くことこそが、
人生の扉を開く、魔法の言葉だった。
そしてかれは十代の終わりには一人前のインド料理人になり、
二十代では、職場を替えるたびにキャリアをさらにいっそう輝かせていった。
中年になる頃には堂々たるグランシェフになって、
かれの履歴のなかの星つきホテルの星の数は、かれの年齢を上回るほどでした。
もっとくわしく知りたい人は、
ラマナイア・シェフ物語を読んでください。http://tabelog.com/rvwr/000436613/rvwdtl/3824754/


インドにあってなお、ラマナイア・シェフのような人生は過去のものになりつつある。
なぜって、いまやインドの5大都市― チェンナイ、ニューデリー、
ムンバイ、バンガロール、カルカッタは、東京・横浜となんら変わらない都市で、
中産階級の層も厚く、日本となんら変わるところはない。
そんな現代にあっては、料理人もまた、
中産階級の男の子が、ハイスクールを卒業して、
それこそ日本の辻調理師専門学校さながらの、
オベロイホテル併設の料理学校に入学し、
フランス料理、中国料理、インド料理を学び、
その後、専門の料理を選び、卒業後は(たとえば)オベロイホテルの厨房で揉まれながら、
スペシャリストになってゆきます。


たとえば、東京の表参道SITAARA本店は、
歴代、そんなエリートたちを料理長に採っていて、
すばらしい料理をふるまっています。
かれらは、野菜のカットの大きさの指示出しも、
フランス料理の流儀で、デとか、コンカッセとか、
ジュリエンヌの基準でカットしていて、
それは料理を見ればすぐにわかります。
とうぜんそんなかれらは、教養として、
ボキューズ、ロブション、デュカス、ブラスをよく知っています。


でも、だからといって、かれらとはまったく対照的な、
ラマナイア・シェフの人生とともにある料理のすばらしさを忘れたことは一瞬たりともなくて。
なぜって、義務教育の社会は、平均的に人間の教養を高めるけれど、
その代償として、天才を作ることができない、
まずは一般教養を身に着け、18歳から料理を学ぶことで、得られるものももちろんたくさんあるにせよ、
しかし、十歳からレストランに入り、
それこそ人生で必要なもののすべてをレストランとホテルで身に着けてゆく、
そんな人生もまたあって、どちらが良いとは一概には言えません。
しかし、ラマナイア・シェフの料理がなんとも魅惑的にすばらしいことは、
インド料理を愛する者には疑いの余地はありません。


ラマナイア・シェフは、
ちんちくりんで、鼻の下に髭を伸ばし、
愛嬌たっぷりな笑顔がなんともチャーミングです。
ラマナイア・シェフは、東京の南インド料理世界に、
ど派手なスパイス使いの、
アーンドラプラテシュ州の料理の魅力を魅せつけています。


初回のおすすめは、ランチタイムミールス、¥1290。
ディナータイムならば、ディナータイムミールス ¥1950です。


旗艦店アーンドラ・ダイニング銀座一丁目店は、内装もちょっぴりお洒落っぽいです。


ラマナイア・シェフ物語。
http://tabelog.com/rvwr/000436613/rvwdtl/3824754/


ぼくと女友達とインド料理、ときどきフランス料理
http://tabelog.com/rvwr/000436613/

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ジュリアス・スージーさんのレビュー レビュー

ラマナイア・シェフ物語

その町の名は、Udupi 、
星たちの支配者の土地、すなわち月の町という意味です。
その町に生まれた、やせっぽちの少年が、
十歳で、レストランの床掃除を振り出しに、
マサラ挽き、ドーサ担当、部門シェフと、
料理人として少しづつウデを上げ、
さらには名門ホテルを渡り歩き、グランシェフになって、
いまでは「東京のインド料理界のラジニカーント」と呼ばれています。
いったいどんな生涯なんでしょう。


その町は、カルナータカ州にあって、
カルナータカ州は南インドの交差点です。
ラマナイア少年は、十歳、カルナータカ州の
Udupi という田舎町のホテルのレストランで、
自分の背丈ほどのモップを持って、広い床をぴかぴかに磨いています。
ラマナイアくんは、痩せっぽちで、背もちっちゃい、
睫が長く、瞳はくりくりしています、
ショコラ色の肌、笑うと白い歯並びがニッと見えます。
ホテルには毎日いろんな国から、旅行者たちがやって来ます、
アラビア半島から、ヨーロッパから、アメリカから。
ラマナイアくんは毎日毎日テーブルを拭き、床をクリーニングしながら、
すぐに覚えました、いつも自分を清潔にしておくこと、
微笑むこと、そしていくつかの英語、
"Yes","Madam","please",Thank you" 文字ではなく、音で。
お客さんが好印象を受ければ、ときにはチップもいただける、
上司の笑顔も返ってくる。
逆に、客に不快な印象を与えでもしたら、怒鳴られ、こずかれ、
最悪の場合、職場から追い出されかねない、
なぜって、自分の替わりなどいくらだっているのだから。
ラマナイアくんは床掃除をしながら、厨房の先輩たちを見ます。
タンドールスぺシャリストは誇らしげに、金串に肉を刺して、
高熱の釜が自分の慣れ親しんだ道具であることを見せつけています。
ドーサスぺシャリストは、
磨き上げ油の染み込んで黒光りする鉄板の上に、
魔法のペーストのように乳白色のタネを拡げ、
またたくまに美しいドーサを焼きあげています。
カレースペシャリストは、夢のような香りのカレーを、
いともたやすく多彩に作り上げます。
料理長は眩しいくらいに純白のシェフコートに身を包み、
各ポジションをまわり、味と香りをチェックし、威厳をもって、うなずきます。
それに比べてラマナイアくんはただの掃除の小僧です。
一日も早く、階級を上に登ること。一日も早く、料理人になること。
そしていつか立派な料理人になること。


かれは二番目めの職場、Janata Hotelに移ります。
ラマナイア少年は細い腕で、石ミルを挽いています、汗をかきながら。
コリアンダー・シード、クミン・シード、メティ・シード・・・
ミルのなかでさまざまなスパイスが潰れ、一体となって、
その美しい香りが、ラマナイア少年のちいさな体をつつみます。
当時はまだインドに電動ミルなど存在しません。
ラマナイア少年は、朝から晩までただゴリゴリゴリゴリ石ミルを挽きます、
挽きつづけます、日が暮れれば、腕はくたくたです。
つらい仕事です、でも、それは理に叶った職業教育でもあって。
なぜって、そんな日々のなかで人は自然と、
サンバルの香りを、ラッサムの香りを、
肉料理のスパイスの構成を、体が覚えてゆきます。
やがてラマナイア少年は野菜のカットのポジションを獲得します、
大量のタマネギの、ニンニク、生姜、グリーンチリ・・・をカットしてゆく。
均一なカットでなければ火の入り方が均等になりません。
おまけに要求されるスピードがきわめて速い。
つづいてラマナイア少年は、調理アシスタントになります。
上司の料理人の次の行動を読み、さっと、アシストしてゆく。
調理技術をまざまざと見ることができることに、
ラマナイア少年は、ドキドキ興奮します。


三番目の職場は、
アーンドラ・プラデーシュ州の州都バンガロールの、郊外にある、
古都マイソールにあるSuda Hotel。
ラマナイア少年は、ドーサ担当に。
熱い鉄板の上に乳白色のタネを円形に拡げ、
油をふりかけ、具を乗せ、焼き上げます。
色合い、均一な仕上がり、クリスピィな食感が大事です。
毎日毎日ドーサを百も二百も焼き上げているうちに、
おのずと知らず体が自然に動くようになっています。
神々に見守られた避暑地のホテルで、当時かれは十六歳でした。


そしてかれがラマナイア青年になった頃、
かれは五つ星ホテル、バンガロールの Hotel Ashok に勤めます。
かにアメリカンな、白亜の宮殿のようなホテルです、
中庭にはプールがあって、棕櫚の木が風に吹かれています。
室内は大理石をふんだんに使い、木材も上等です、
天井にはシャンデリアが宝石のように輝きます。
あらゆる場所は清潔に磨き上げられ、花々があしらわれています。
それからまた厳しいセキュリティ、礼儀正しく教育されたサーヴィス、
レストランも、カウンターも交代制で二十四時間機能しています。
かにも貴族的な世界がそこにあって。
Hotel Ashok のレストランは、
中華料理、ヨーロッパ料理、
インド料理、ムガル料理、そしてタンドール料理をふるまっています。
レストランに雇われたかれは、
もう一度、床掃除からやらされました。
でも、ラマナイア青年は苦にはなりませんでした、
なぜって、そこは五つ星ホテルのレストランだから。
ラマナイア青年は決心しました、すぐに厨房に立ってやる。
そして数ヶ月後、決心どおり願いを叶え、
野菜のカットのポジションを獲得し、
ほどなくして北インド料理を作らせてもらえるようになります。
二十三歳の青年料理人になっていました。
そしてかれはその五つ星ホテルの厨房で、
あらゆるポジションも勤めあげます。


しかし、順風満帆に見えるラマナイアさんの人生にも、
悲しい出来事もまたありました。
かれが三十代半ばになった頃、
かれは満を持して、アーンドラプラデーシュ州のアナンダプールで、
ちいさなレストランのオウナー・シェフになりました。
かれがメニューを組み立て、かれが料理を作りました。
レストランは、評判になり、最初のうちは好調でした。
気をよくしたかれは、さらに二軒のレストランを作り、計六十席をまわしました。
しかし、やがて経営はおもいどおりにはゆかず、傾きはじめ、
あの手この手の営業努力の甲斐もなく、
けっきょく、1989年、かれはすべてを失ってしまいます。
ラマナイア・シェフは、当時を振り返って、つぶやきます、
"I lost everyting!" 肩をすくめ、両手を広げて。


その後、ラマナイアさんは、
ふたたびホテル・レストランの厨房に復帰します。
アーンドラ・プラデーシュ州の州都
ハイデラバードの五つ星ホテル、Taj に職を求め、
活躍し、その評判で、Holiday Inn に、
さらには、Oberoi Hotels & Resortsで、
それぞれスー・シェフ、シェフを務めます。


そしてラマナイア・シェフが名声を獲得した時期に、
かれは2003年、東京八重洲のダバ・インディアに開店とともに呼ばれ、
2008年秋まで、6年間にわたってダバ・インディアの黄金時代を築きます。
当時、ラマナイア・シェフは、
第一次安倍内閣のとき総理大臣がインドの要人をお招きする晩餐会の、
料理長も勤めています。
ラマナイア・シェフは、シェフコートのポケットに、
デジタルカメラを持っていて、
にこにこうれしそうに当時の安倍総理とラマナイア・シェフの、
ツー・ショットを見せてくれます。
(余談ながら、この時期のダバインディアの日本人スタッフたちのなかから、
大塚のカッチャルバッチャルが、木場のカマルプールが生まれ、
そして千駄ヶ谷にディルセが誕生した。)


そしてラマナイア・シェフは、
御徒町アーンドラキッチン開店とともにシェフに就任、
あっというまに成功を収め、
さらには、銀座の一等地に旗艦店を出店。
東京にすばらしくおいしいインド系料理店は40軒ほどあるにせよ、
しかし、内装、サーヴィス、料理のクオリティがすべて揃っている名店は少ないなか、
インド料理ならば、表参道シターラ本店(ただし、ア・ラ・カルト)、
そして南インド料理ならば、この銀座アーンドラ・ダイニングこそ、
自信をもってお勧めできるレストランです。


ミールスラッサムにジャガリ(濁り黒砂糖)を潜ませりするスタイルや、
アーンドラプラテシュ州らしいタンドールのチャトニマリネ
はたまたユーモラスにおいしいペサラットゥがイイ。
他方、ビリヤニは、眠い。


場所は、銀座一丁目コージーコーナーの角を折れてすぐの、二階。
内装は、インドっぽい演出もなく、ほど良く chic で、
美女のためのインドレストランとしても、愛される仕様になっています。
ひかえめな場所にオープンキッチンがしつらえてあって、
タンドリー釜、グラインダー(大きな寸胴のような形です)、
ガスレンジが4つに、ドーサ用の鉄板があります。
ダイニングは、窓際に一列と、中央部の一室になっていて、
数組のパーティが入っても、上手に、お客の振り分けができるようになっています。


ぼくと女友達とインド料理、ときどきフランス料理
http://tabelog.com/rvwr/000436613/





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 ぼくが世界の料理を出す料理店に望むこと。

 レストラン、料理店、食堂呼び名は変っても、それぞれがまさに一国一城の主。

その国を代表する気概をもって店を守ってほしい。

そのために、何をするか?

 まず、お店の存在理由を持っているか?

 お客様にどんな気分になってほしいのか?


 1.地元の人、店の前を通る人が一目でわかるような看板
   
   アーンドラダイニングの立て看板はわかりやすかったです。

 2.WEBサイトで、その国の食文化の詳細を知らせる。

   食べログやぐるなびだけでは伝えることができない。


   素人相手のいい加減なお店:ネパールも、インドも、バングラディッシュもごちゃまぜ

   常連客相手の不親切なお店:専門用語で意味不明の言葉ばかりのメニュー、知らない人には敷居が高い

  もっとも、意識してそういったお客さんをターゲットにしているのなら仕方がないのだが・・・。

  啓蒙意識をもって自国の文化を日本人に広め、もっと交流を深めようと心がけてほしいと僕は思う。

  中国、韓国、インド、タイなどなど少数民族の料理を含め、
 
  食べ物を通じてその国の人々交流が深まれば、

  本当の意味でお互いに郷土(自然)を守ることができるから。
   

 3.各国のイベントと連携 

  イベントに出店しなくても告知や特別料理などで盛り上げる

  アーンドラダイニングの入りグッチに2012年のポスターがある。

  過去の素晴らしいイベントはサイトで公開し、

  店頭では、今年の予定を教えてほしい。

  もしイベントの主催者が発表していないなら、

  日時を自分で決めて店内で出来ることをすればいいと思う。

 4.店が主宰で、定期的にお食事会やビュッフェを開催する

   初心者も常連もたのしめるような食事会

    手食の食事会、南インドやアーンドラ地方独特の料理の紹介

 5.多くの人が国際交流できるきっかけをつくる。

  美味しいものを食べたらみんな仲良くできると思う。

  twitterやfacebookで言葉を交わし、関心を持ち続けることが交流だと思う。


 僕が心がけていること。

 ・つながりをよくすること・・・関心持ち、関心を持ち続けること

 ・情報と叡智の共有化・・・情報の共有化だけでなく、コツや知恵の共有化

  コンピューターのプログラムの進化は無料で共有化しているからだと思う。

  特許や利益が進化を促していると喧伝しているが、

  本当にすばらしい多くの発見、発明は特許を取ることを放棄している。


 もっとも僕自身、無知で知恵遅れで迷惑ばかりかけている。

 だからこそ、わからないこと、そして、わかりにくいことの辛さを感じることができるのかもしれない。

 自分で問題を見つけ解決できたときの喜び、

 未知との遭遇、

 これほど楽しくワクワクすることはない。

 もちろん肝を冷やしたり、胃がキリキリすることもあるけど、

 たいてい苦労が大きいほど見返りは大きかったような気がします。

(あ、偉そうなこと言ってすいません。まだ大きな成功なんてぜんぜんしてないです。)


 ぼくの考えと賛同して、実現してくれるお店が一軒でもあればうれしいなぁ。


 今回のようなイベントを、お店がfacebookなどでお店のファンに呼びかけ、

定期的に実現できるようになればいいなぁ。

 
 無駄な広告宣伝費にお金をかける分をファンに還元するお店が増えますように。



















































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